車の歴史
更新日:2019.06.26 / 掲載日:2019.06.26
名車探訪 MAZDA サバンナRX-7(SA22)
SA22はまず日本で発売され、次いでメイン市場となる米国、そして欧州へと導入されていく。開発の前提にあったのがロータリーエンジンのアドバンテージを最大限に生かす「RE専用スポーツカー」であること。そしてもうひとつが「Affordable Price」(手が届く価格)。当初4000ドルあまりを目標として開発は進められたが、折からの円高もあって、米国での販売価格は6995ドルとなった。それでも欧州のスポーツカーより随分と安い。その高性能やフォルムも大いに評価され、米国販売直後は「早く欲しい」とプレミアムまでついたという。
手頃な価格で買えた一級品のスポーツ性能
軽自動車を含む全車にRE搭載のロータリーゼーションを掲げていたマツダだが、1973年のオイルショックで雲行きが怪しくなり、米国市場からの撤退さえ噂されていた。それでも失地回復を目指しマツダが選んだのは「ガス喰い」と揶揄されたREだった。
「ガス喰い」と呼ばれたロータリーエンジンの不死鳥の如き闘い
自由の国、アメリカは、時に油断も隙もない国でもある。オイルショック直後の1973年秋にEPA(合衆国環境保護局)が発表したロータリーエンジンの燃費テストデータも、その一例だ。
彼らはロータリーエンジンにとっては悪条件となる、主に市街地を想定した低速モードの燃費テストの結果をいきなり公表。ご丁寧に「ロータリーエンジンはガスガズラー(ガス喰い)である」というコメントまで付けたのだ。そうして、東洋工業(現・マツダ)の独自技術であるロータリーエンジンは、頼みの北米市場において致命的なダメージを負ったのだった。
そもそもロータリーエンジンは、国内の自動車メーカーを数社に集約しようとする通産省(現・経済産業省)の構想に対抗して生き残るための、マツダの命綱だった。当時の西ドイツから不利な条件で購入した未完成の技術を、マツダは不屈の精神で完成。1967年のコスモスポーツを皮切りに、1970年のファミリア、1971年のカペラ、1971年のサバンナと、ロータリーエンジンの搭載車を増やした。
その技術力は、米国のメーカーが達成不可能と主張した厳しい排ガス規制もホンダのCVCCエンジンに続いてクリア。マツダの北米における販売台数を、1970年の1万台以下から、1973年には15万台まで伸ばす原動力となった。
ところが、1973年に勃発した中東戦争を引き金に起こったオイルショックで原油価格が高騰すると、それまでガソリンをがぶ飲みする5L、6Lの大排気量車を愛用していたアメリカ人が、急に燃費を意識するようになる。そのタイミングに合わせたEPAのステートメントは、ビッグ3が造る大排気量車の燃費から目をそらさせつつ、急激に勢力を伸ばしてきた日本車をけん制するための、いじめにも似た政治的攻撃とも言えた。
そうして、パタリと売れ行きが止まり、在庫の山を抱えたマツダでは、ひとつの商品企画がお蔵入りを余儀なくされた。1970年から検討されていた、コスモスポーツの後継車となるロータリーエンジン専用スポーツカーの企画だ。
アメリカ発のロータリーエンジンへの燃費攻撃は日本にも飛来し、ロータリーの「ガス喰い」という評判はたちまち定着してしまった。
のちにマツダ社長となる山本健一氏を始めとする開発陣は、フェニックス計画と名付けてロータリーエンジンの改良に取り組み、数年のうちにはじつに40%もの燃費改善に成功するのだが、時すでに遅し。実用モデルに関しては、レシプロエンジン車をメインに商品構成を再構築するしかなかった。
サバンナRX-7(SA22)
SA22の変遷
◯1978年(昭和53年)
3月 サバンナRX-7(SA22)発売。グレードは4種(123万~173万円)
◯1979年(昭和54年)
3月 SE-GT、SEリミテッド追加
10月 12A型ロータリーを希薄燃焼型に変更。排ガス浄化方式もサーマルリアクターから触媒式に変更
◯1980年(昭和55年)
11月 ボディと一体形状のエアダム付きウレタン製バンパーを採用
◯1982年(昭和57年)
3月 エンジンを12A-6PIに変更し、燃費向上。四輪ディスクブレーキをベーシックグレード(GT-J)を除いて標準装備化
◯1983年(昭和58年)
9月 マイナーチェンジ。12A型ターボエンジン車を追加
◯1985年(昭和60年)
10月 フルモデルチェンジで2代目FCに移行
●主要諸元 サバンナRX-7リミテッド(1978年式)○全長×全幅×全高:4285mm×1675mm×1260mm ○ホイールベース:2420mm ○車両重量:1005kg ○乗車定員:4名 ○エンジン(12A型):直列2ローター573cc×2 ○最高出力:130PS/7000rpm ○最大トルク:16.5kg・m/4000rpm ○0-400m加速(2名乗車):15.8秒 ○最小回転半径:4.8m ○燃料タンク容量:55L ○トランスミッション:前進5段、後進1段 ○サスペンション(前/後):マクファーソンストラット式独立/4リンク+ワットリンク ○タイヤ:185/70SR13 ○価格(東京地区):169万円 ※3速AT車は173万円
ボンネットが低いため、当初のデザイン案では固定式のヘッドランプがカエルの目玉のように飛び出ていた。そのため、かわいいカエルのマスコットで知られる医薬品ブランドのニックネームが付けられたという。
その後リトラクタブルヘッドランプ案へ変更。-20度の低温室で作動部を凍結させたりなど、過酷なテストが繰り返された。リヤはガラスハッチを採用する。
イメージカラーのマッハグリーンはチェック柄のベージュインテリアを採用。スポーツカーというより、スペシャリティカー/セクレタリーカーといった印象だ。
モノトーンのサバンナ(RX-3)からカラフルに方向転換したRX-7
初代サバンナ(RX-3)がブラックを基調にしたインテリアなど硬派なスポーティを売りにしていたのに対し、RX-7は操縦性や乗り心地、内装デザインもあえてハードを嫌っている。米国市場では働く女性もメインターゲット。そのためボディカラーやシートも、明るい色やデザインが豊富にラインナップされた。
ロータリーエンジンの命運を握った2by2クーペ
前輪の車軸より後ろにエンジンを積む「フロントミッドシップ」は、コンパクトなロータリーエンジンと2by2という「割り切り」なくして実現しなかった。そしてこのレイアウトから、50.7対49.3という理想的な前後重量配分、極めて低いフロントノーズによる先鋭的なシルエットが生まれた。
ポルシェの高性能を実用車の価格で提供日米で好発進したセブン
しかしマツダは、ロータリーエンジンを諦めたわけではなかった。山本ロータリーエンジン開発部長は「ロータリーで失った地盤はロータリーで奪い返す」と決意を口にし、開発陣は燃費も動力性能もたゆまず磨き続けた。
そうした努力が報われるきっかけは、1975年に行われた北米の市場調査の結果だった。商品企画担当者らが自ら現地に飛び、ユーザーからの直接の聞き取りなどで得たデータは、それまで国内だけで考えていたユーザー像とはまったく異なるものだった。
当時、日本ではスポーツカーとは限られた若者の乗り物と考えられていた。それを求める人はレースなどに興味を持ち、ともすれば公道でも飛ばす暴走族と見なされることさえあった。作り手だけでなく、多くの国民や行政もそうした見方をしていたために、スポーツカーを堂々と名乗るクルマの販売は憚られる状況だったのだ。
ところが、北米のスポーツカーユーザーは違っていた。2人乗りでも主な使い方は通勤や通学であり、ユーザーの半数は女性。年代も幅広く、購入時には価格を重視する一方で、高性能への憧れも強く、多くの人がいつかはポルシェに乗りたいと答えたのだ。
すなわち、ポルシェの性能を持つ本格的なスポーツカーを実用車並みの価格で提供できれば、大きな成功が約束される。そして、その商品企画の実現には、小型軽量で高性能なロータリーエンジンはうってつけだったのだ。
オイルショック後の経営不振のために銀行から受け入れていた経営陣も、マツダの独自技術であるロータリーエンジンの特性を生かした企画に賛同した。そうして、開発は急ピッチで進み、本格的な設計着手からわずか1年3か月で量産にこぎつけたのがSA22型初代サバンナRX-7だ。
スポーツカーが色眼鏡で見られていた当時の日本では、2シーターは運輸省も認可しないという悪者扱い。そこで海外では2シーターと割り切った流麗なシルエットの中に、日本向けは狭いながらも後席を備えた2+2とした。
当時の海外向けのロータリーエンジン車には初代カペラ(RX-2)、初代サバンナ(RX-3)、2代目コスモ(RX-5)がラインナップされていたが、開発コードX605のロータリー専用スポーツカーはラッキー7を当て込んで、RX-7と命名された。
本物のスポーツカーのフォルムと性能を大衆車の価格で実現させたRX-7は、日米双方の市場で数か月分のバックオーダーを抱える爆発的な人気を呼んだのだ。
○S53年排ガス規制にも適合した12A型ロータリー
日本版マスキー法といわれた厳しいS50年規制の後も排ガス規制強化は続き、この頃国産のスポーツエンジンは次々カタログから消えていった。そんな中、NOx排出量が少ないロータリーは排ガス浄化がしやすく、RX-7はサーマルリアクター方式にEGRバルブを装着しただけで昭和53年規制をクリアしている。
○常勝サバンナ(RX-3)レース仕様から継承されたワットリンク機構
常勝サバンナ(RX-3)のイメージを継承するという側面もあり、リヤサスペンションにワットリンク式を選んだRX-7。当時このクラスで一般的だった5リンク式に比べ、操縦安定性に優れ、ショートテールにできるというデザイン状のメリットもあった。
発売から1年後に追加された豪華仕様「SEシリーズ」の目玉がこの2ウェイサンルーフ。開口部は490mm×765mm。ダイヤルを回して後端を持ち上げることもできた。
この当時の社会情勢もあり、国内向けは2by2の4人乗りとされた。ちなみに1978年4月に投入された米国モデルは純粋な2シーターである。
リミテッドとSEシリーズには左右のドアにポケットが付いた。
リヤシートはレバー操作により一体前倒しが可能で、荷室長を大きく拡大することができた。廉価グレードを除きカーゴストラップも装備。
世界のレースで活躍したSA22
1985年のアクロポリスラリーのワンシーン。軽量コンパクトなSA22はグループ2の強力マシンとして名を馳せ、1984年には13Bロータリーを積みグループBへとステップアップした。
新参者のREにとって、その技術を高め、また信頼性をアピールする場としてレースは格好のステージだった。マツダはライバルメーカー以上に早い時期から海外のレースに参戦。SA22・RX-7でとくに有名なのが米国IMSAシリーズでの活躍だ。
IMSA
1979年から参戦。この年、初戦デイトナ24時間レース・GTUクラスでワン・ツー。総合でも5位/6位に入賞する。翌1980年から1987年まで8年連続でマニュファクチャラーズタイトルを獲得。スポーツキットを利用すれば、手軽にチャンピオンマシンの性能に近づくことができたRX-7は、数多くのプライベートチームにも選ばれた。
ル・マン24時間耐久レース
ロータリーエンジンが初めてル・マンに現れたのは1970年。この年ベルギーから参加したプライベートマシンが、マツダから供給された10Aを搭載して参戦。結果は3時間でリタイヤした。1979年にはマツダスピードが13B型ロータリーを積むRX-7ベースの252iで参戦するも予選不通過。1982年、252iから改良された254が2台出場。一台が完走(14位)。
WRC
軽量でコンパクトなRX-7はラリーフィールドでも活躍。デビューは1981年WRC最終戦のRACラリー(総合11位)。1983年には13Bロータリーを積むグループBレース車を開発。1985年のWRCアクロポリスラリーでは総合3位に入賞したが、時代は4WD全盛となり、際立った活躍とはいかなかった。
RX-7の進化とマツダロータリー史
2012年のRX-8生産終了を最後に、ロータリーエンジンは市場から姿を消している。しかしマツダ社内ではまだロータリーエンジンの研究は続けられているのだ。REはマツダのアイデンティティ。その復活はもうそこまで来ているのかもしれない。
いまも継続するRE研究ロータリーロケット復活は決して夢ではない
ロータリーエンジンの原理を発明したのはアウディの前身となる、当時の西ドイツのNSUだが、実用レベルの量産に成功したのは世界でもマツダだけだ。
エンジンの吸排気システムにしても、NSUのオリジナルはローターが摺動するハウジングに直接穴をあけたペリフェラル方式で、さまざまな問題の原因となっていた。そこにマツダは、サイド吸気化などの改良を加えた。
排ガス対策もHCが多い代わりにNOxが少ないロータリーの特性を生かし、排気にポンプで空気を送り込んでHCを再燃焼させるサーマルリアクター方式でクリア。6PIと呼ぶ可変ポート+触媒方式を経て、3代目RX-7の時代には、280PSの高性能とクリーンな排ガスを両立させている。
燃費性能も毎年のように向上。2003年のRX-8に積まれたRENESISエンジンでは、吸排気ともにサイド方式を実現させて自在なエンジン特性を獲得。高性能と低燃費の進化に成功している。ただし、そうした技術的な壁はいくらでも乗り越えられたが、為替や保険料率などの外的要因は、開発陣には如何ともしがたかった。
そもそも初代RX-7は、企画当初は大衆車並みの4000ドル以下の販売価格を予定していたが、その頃300円前後だった円ドル相場は、発売が近づいた1978年春には200円を割る。結果、発売価格は7000ドル近くと、当初計画より大幅に高くなった。
それでも人気を呼んだ初代RX-7だが、2代目となるFC3S型が登場した1985年のプラザ合意からはさらに円高が進み、もはや日本からの輸出では、大衆車並みの価格の維持は難しくなる。結果、FC3Sは一回り大きな13B型エンジンにターボも搭載。大衆車の価格で乗れる入門スポーツカーから、価格も実力も上級の高性能スポーツカーへと商品企画の変更を強いられる。
1991年に誕生したFD3S型でもその傾向は続いた。おかげでRX-7は世界でも有数の本格的なスポーツカーとして評価されるまでになるのだが、その高性能は新たなリスクを呼ぶ。北米でスポーツカーの保険料が高騰したのだ。
4人乗りのRX-8はそれへの回答だったが、世界のトレンドがSUVを指向する中では、いかにロータリーエンジンが優れていても、もはやスポーツカーの商品企画自体に勝機はなかった。それでも、マツダはロータリーエンジンの研究を今なお続けている。いつの日かまた、ロータリースポーツカーを。彼らはきっと、そう夢見ているはずだ。
○サバンナRX-7(FC)
2代目RX-7に求められたのは、初代が築きあげたピュアスポーツとしての名声をさらに進化させること。その方向性は初代誕生の1年半後にはすでに固まっていたという。より高次元のスポーツ性を実現させるべく、サスペンションは4輪独立式に、エンジンも13B型ターボへと大幅にパワーアップした。1986年には2座仕様のスパルタンモデル「∞」(アンフィニ)、また1987年にはカブリオレも追加された。
●主要諸元 サバンナRX-7 GTリミテッド(1985年式)
○全長×全幅×全高:4310mm×1690mm×1270mm ○ホイールベース:2430mm ○車両重量:1280kg ○乗車定員:4名 ○エンジン(13Bターボ型):直列2ローター654cc×2+インタークーラー付きターボ ○最高出力:185PS/6500rpm ○最大トルク:25.0kg・m/3500rpm ○最小回転半径:4.9m ○燃料タンク容量:63L ○トランスミッション:前進5段、後進1段 ○サスペンション(前/後):マクファーソンストラット式独立/マルチリンク式独立(セミトレーリング) ○タイヤ:205/60R15 89H ○価格(東京地区):303万8000円
・カブリオレ
ロータリー車販売20周年を記念して追加されたカブリオレ。フルオープンのほか。タルガ風としても楽しむことができた。幌は電動開閉式だ。
○アンフィニRX-7(FD)
サバンナの呼称がなくなり、当時の販売店であるアンフィニの名が使われた3代目RX-7は、さらにピュアスポーツカーとしての資質が磨かれ、パワー・ウエイト・レシオ5.0kg/PSを下回ることを目標とした。サスペンションはオールアルミ製の4輪ダブルウィッシュボーン、エンジンは後に当時の規制値上限280PSまで高められる13Bツインターボを搭載。いまなお燦然と輝くピュアロータリースポーツだ。
●主要諸元 アンフィニRX-7 GTタイプR(1992年式)○全長×全幅×全高:4295mm×1760mm×1230mm ○ホイールベース:2425mm ○車両重量:1260kg ○乗車定員:4名 ○エンジン(13Bツインターボ型):直列2ローター654cc×2+インタークーラー付きツインターボ ○最高出力:255PS/6500rpm ○最大トルク:30.0kg・m/5000rpm ○最小回転半径:5.1m ○燃料タンク容量:76L ○トランスミッション:前進5段、後進1段 ○サスペンション(前/後):ダブルウィッシュボーン式独立/ダブルウィッシュボーン式独立 ○タイヤ:225/50ZR16 ○価格(東京地区):385万円
MAZDAロータリー開発の歴史とRE搭載車
○ドイツのF・ヴァンケル博士とNSU社が共同開発で、ロータリーエンジンの原型を発表(1959)
○当時の社長、松田恒次が自らNSU社を訪ね、技術提携交渉を始める(1960)
○NSU社と正式調印。技術研修団を派遣(1961)
○社内にロータリーエンジン研究部を設置。山本健一部長以下総勢47名(1963)
○マツダ初のロータリーエンジン〈10A型〉搭載車「コスモスポーツ」発売(1967)
○2代目ファミリアにロータリークーペ〈10A型〉を追加(1968)
○初代ルーチェにロータリークーペを追加〈13A型〉(1969)
○初代カペラ発売。REモデルもラインナップ〈12A型〉(1970)
○2代目カペラ発売。発売当初はRE〈12A型〉車のみ(1972)
○日本のプライベートチームが12A型搭載モデルでルマンに挑戦。決勝リタイヤ(1973)
○2代目カペラ発売。発売当初はRE〈12A型〉車のみ(1972)
○ロータリーエンジン〈13B型〉を積むロータリーピックアップ発売(1973)
○ロータリーエンジン〈13B型〉を積むマイクロバス「パークウェイロータリー26」を発売(1974)
○ロードペーサー発売〈13B型〉(1975)
○2代目コスモ発売〈13B型〉(1975)
○サバンナRX-7(SA22)〈12A型/12A-T型〉発売(1978)
○サバンナRX-7(FC)〈13B型/13B-T型〉発売(1985)
○ユーノスコスモ〈13B-REW型/20B-REW〉型発売(1990)
○アンフィニRX-7(FD)〈13B-REW型〉発売(1991)
○第59回ル・マン24時間耐久レースでマツダ787Bが日本車初の総合優勝(1991)
○アンフィニRX-7(FD)生産終了(2002)
○RX-8〈13B-MSP型〉発売(2003)
○RX-8生産終了(2012)。この時点でロータリーエンジン搭載モデル消滅。
乗用車メーカーとしては弱小の東洋工業(現マツダ)が生き残るにはRE技術が必要だと考えた松田恒次社長(当時)は、1960年、自らドイツに出向き技術提携交渉を進めた。
1961年NSU社と正式調印。最初に送られてきたエンジンは悪魔の爪痕と呼ばれた「チャターマーク」など問題が山積みで、実用化にはほど遠いものだった。
高速で回転するローターは、ものの数時間でハウジングの内側に洗濯板のような波状の傷をつけた。悪魔の爪痕と呼ばれるチャターマーク克服が実用化のネックとなった。
1963年、ミスター・ロータリーと呼ばれた山本健一部長をリーダーに、若手中心の総勢47名でスタートしたロータリーエンジン研究部。1964年に完成したその研究室は最新の設備を誇った。
1964年東京モーターショーでのコスモスポーツ試作車。同時に単室容積400ccの2ローターと4ローターの2つのエンジンも出品されたが、RE車発売はまだ先。
ル・マンに初めてRE車が走ったのは1970年。ちなみにマツダとしての参戦は1974年から。そして1991年、R26B型4ローターエンジンを積むマツダ787Bが念願の総合優勝を果たす。
・コスモスポーツ
世界初の量産型ロータリーエンジン車。発売の前年には全国の販売会社に47台の試作車が送り込まれ、極寒から酷暑まで様々な環境下で実地テストが行なわれた。・ファミリアロータリークーペ
コスモスポーツに次ぐ第2弾ロータリーエンジン搭載車。カローラ/サニーという強力ライバルに10Aロータリーの走りの良さで対抗した。・ルーチェロータリークーぺ
マツダの最上級車として1966年に登場したルーチェだが、1969年に13A搭載車を追加。エレガントなデザインでハイウェイの貴公子と呼ばれた。
・カペラ
新開発された12A型ロータリーの搭載車として登場したカペラ。1.6Lのレシプロエンジン車もラインナップ。「風のカペラ」の愛称で人気となった。・初代サバンナ
ファミリアよりひとクラス上を狙ったREモデル。レシプロを積む兄弟車グランドファミリアも同時にデビュー。国内レースで無類の強さを誇ったスカGの50連勝を阻止したことでも名を馳せた。・ロータリーピックアップ
4気筒レシプロを積み、北米で人気を誇ったB1600ピックアップトラックにもロータリーエンジンを搭載。13Bロータリーは使いやすさ重視で111PSにデチューン。
・パークウェイロータリー26
26人乗りのデラックスのほかフル装備の13人乗りスーパーデラックスをラインナップ。航続距離を伸ばすために70Lの燃料タンクを2個積んでいた。・ロードペーサー
業務提携を結んだ豪州GMホールデン社の「ホールデンプレミア」のボディにREを積み日本で販売したエグゼクティブセダン。前席ベンチシートの6人乗りもラインナップした。・コスモAP
コスモスポーツ生産中止から3年後に発売された新世代コスモ。公害対策を意味するAPを名乗る。13Bロータリーの高性能と豪華な内装を持つ上級スペシャリティ。
・ユーノスコスモ
コスモスポーツから数えて4代目。12気筒並みといわれた滑らかな3ローターRE車もラインナップ。世界初のGPSナビゲーションを装備するなど贅沢を極めた一台。・RX-8
RX-7(FD)生産終了から1年、フォードとの提携もあり米国の保険事情から4ドアありきで開発されたスポーツクーペ。観音開きの変則4ドアを採用。
ロータリーエンジンのこれから
2017年の東京モーターショーにRXビジョン(写真)の出品はなかったが、2019年の同ショーにRX-9出品のウワサもあり。
2015年の東京モーターショーでお披露目され、その後動きのないREコンセプトモデル「RXビジョン」だが、水面下で研究が続いているともいわれる。RX-8の生産終了(2012年)からロータリーエンジン車は途絶えているが、軽量・コンパクトで静かなREの特性を生かす研究もすすんでいる。
ロータリー復活の本命といわれるEV発電用のレンジエクステンダー。小さくて静かなREはうってつけのエンジン。